2017年12月の初旬に東京の鼈甲専門店や百貨店で販売されている鼈甲製品の現状を識るべく訪ねてまいりました。
限りのある稀少な原材料を使ってお作りしていますので
一品一品の商品の厚さを薄くしたものが多く見受けられました。
こればかりはしかたのないことでございます。
とはいえ その貧弱なつくりと商品におけるデザインのバリエーションの乏しさには
愕然とするものがありました。
そして なんとも言葉にし難い寂しさがございました。
どんなに向上心があっても
競争原理がはたらく環境に身をおいていないと人は成長しません。
いまから35年ほどまえ わたくしが祖父の下でべっ甲のお仕事をはじめたばかりの頃
長崎市の中心商店街・浜町アーケード街には 鼈甲の専門店が8軒ございました。
個々のお店が自店の商品の品質を競っていました。
それぞれのお店の商品にはそれぞれの個性がありました。
そして鼈甲細工の製法がポルトガルや中国から長崎に伝えられて300有余年
べっ甲製品を見続けてきた長崎の人達と
「良い鼈甲がほしくて長崎に来たんだから」という目的で来店してくださる
全国の鼈甲愛好者の方々の容赦なく厳しい視線がありました。
すべてを見透かすお客様の存在を意識しながら日々の営業を
緊張感を抱きながら過ごしてきました。
また 個人で独立して鼈甲製品をつくって小売店に納品している職人たちの胸のうちにも
「○○鼈甲店の店頭に並んでいる商品はわたしがつくったもの」
という誇りを持って日々制作に励んでいると思わせる感がありました。
いまは原材料が枯渇していますので職人の数もほんの少しです。
競争原理がはたらかないからでしょう。
職人がそれぞれの腕を競っていた頃の勢いはまったく感じられませんでした。
また商品のお値段も信じられないほどの高い金額がつけられていました。
商品をおつくりするときの原材料の金額や職人の工賃プラスαという
高額品から価格のお安い商品に至るまで一貫した基軸が観えてきませんでした。
価格体系が壊れてしまっていました。
希少価値があるとはいえここまで付加価値をつけてお値段を上げて良いものかと思わせる商品が多々見受けられました。
わたくしどもが出品させていただいております商品の定価は
現在の鼈甲業者間の販売価格に照らし合わせたものではなく
長崎で店舗を営んでおりました頃の販売価格をそのまま明記させていただいております。
商品によっては昨今 街中で販売されている価格の
三分の二 または 二分の一 のお値段でございます。
わたくしどもの商品は原材料に余裕があった頃にお作りしたものですので
商品にボリュームがあります。
それぞれの商品のデザインに合う色彩の甲羅を
たくさんの原材料のなかからお選びしてお作りしたものばかりでございます。
電動式万力の圧力メーターの数字を見ながら鼈甲の原材料をプレスしていくのではなくて
手動式の万力を全身の力で回しながら圧をかけて
数字ではなくて勘を頼りに微調整をかけていく
製造効率など考えないで 納得のいくまで時間をかけて彫刻を施していく
数ミリの厚さの違いやほんのわずかな鼈甲色の模様の違い
労を惜しむことなく手間暇を費やしてみても
遠目にはさして変わらないように見えたりもしますが
商品をお付けいただいたとき
その商品が醸し出す存在感や立体感において
似て非なるもの
という大きな違いがございます。
鼈甲業界に余力があるときにわたくしが体調を崩したことでやむなくお店を閉じましたので
当時の勢いのある商品が手付かずで手元にございます。
鼈甲製品の作り手にとってゆとりがあったころに制作いたしました最期の作品を
丁寧に 少しずつ そしてできるだけ永く
出品させて頂きたいという思いを新たに致しました。
長崎市にお住まいの方から鼈甲製品の修理についてのご質問を頂きましたので
質問と回答を原文のまま記載させて頂きます。
質問
長崎市民です。とても懐かしく、また閉店を残念に思っておりました。
購入後に使用していく中、割れ・カケなどできた場合の修理など、どんな感じになりますか?
宜しくお願い致します。(2016年10月 6日 12時 41分)
回答
ご質問ありがとうございます。回答欄は全角300文字以内という字数制限が設けられていて 300文字以内ではうまくお伝えできない内容ですので 字数制限のない商品説明の最下部に回答を追加記載させて頂きます。
わたくしは職人ではございません。
長崎でお店をさせて頂いておりました頃は職人を抱えていましたので修理をさせて頂いていました。
しかし現在は職人を雇用していませんので修理をする術がございません。
商品の修理は造り手と同等もしくはそれ以上の腕のいい職人の手に委ねないとうまくできません。
腕の良くない職人の手にかかりますと
どんなにすぐれた製品であっても不格好で悲惨なものになってしまいます。
幼児の工作のようなハリボテになってしまいます。
鼈甲製品は二つに割れたりヒビがはいってしまっても
水.卵白.熱.圧力を駆使することで接着部分がまったくわからない
新品の状態まで変幻自在に復元することができます。
しかし腕の良くない職人ですと接着部分が微妙にわかってしまうできあがりになります。
光沢がなくなってきた商品も磨き直しをすることでご購入時と同じ状態になります。
しかし腕の良くない職人ですと表面を必要以上に削ってしまい
薄っぺらで小さなデザインが崩れておかしなものになります。
わたくしの手元にあります商品は鼈甲業に勢いがあったときの腕のいい職人によるものばかりです。
鼈甲業は原材料の輸入禁止以前に入手した材料が尽きたところでおしまいです。
ほんの一握りの腕のいい職人は高齢で廃業していき息子さんにはあとを継がせていません。
長崎市浜町アーケード街.浜屋百貨店そばで鼈甲の専門店をいたしておりましたころは
他の鼈甲店の商品であってもすべての修理をお受けして
新品と遜色ないところまでの完璧な修理をお受けしていました。
わたくしの知る限り わたくしどもの商品を完璧に修理できる腕のいい職人は
日本国内には現存しないと思われます。
お使い頂いた後には必ず柔らかい布で拭いていただき
傷ついたりくもったりしないよう大切にお使い頂ければと
切望しています。
質問者様からのお返事
ご丁寧に回答頂きありがとうございます。
以前川口鼈甲さんの前を通るたび、いつか落ち着いた大人になって持ちたいな・・・
と憧れていました。
いざ大人になってみると、浜町の素敵なお店がどんどん閉店し、
鼈甲も以前に比べ、大変貴重で、職人さんも減ってしまったようで、
大切にするしかないのですね。
参考にします。
2005年11月に長崎に住む男性の友人からメールを貰いました。
立山町旧知事公舎・美術館跡地に歴史文化博物館がオープン致しました。
そのセレモニーに「龍踊り」(諏訪神社秋祭の奉納踊)で娘と家内も参加しました。
セレモニー終了後、一般公開前に館内を見学していた所、鼈甲工房が常設されておりました。
店内を覗いていたところ家内が身に着けていた川口鼈甲店で購入したブローチ、イヤリング、ペンダントに
職人さんの目が留まり
「良いものを持っていらっしゃいますね」
と言われました。
「主人の友達の川口鼈甲店で買ったんですよ」
「川口はいい商品を売ってたから。いまはこれだけの商品は手に入らないので大事に使ってくださいね」
その会話を聞いていて嬉しい気持ちになりました。
そして 「川口にメールで報告しとかんば…」
と思ったのでメールでご連絡いたします。
2017年 秋.
長崎に住む女性の友人からメールを貰いました。
オークションの商品 楽しみに見ています。
今回の簪も粋な感じで、女性なら誰しも憧れる逸品ですね。
(元の価格が安すぎのような~もっと高くでいいのでは??)
手鏡も素晴らしいです。
(べっ甲の手鏡初めて見ました)
川口さんの商品.贔屓目かもしれないけど他の出品とは何かが違う
別格です。
何気なく鼈甲屋さんにはいって商品を見回してみたけど
川口さんのオークションの商品のほうがなんかきれい….
前に出品していたきれいな飴色一色の銭龜さんどこにもいませんでしたよ。
オークションで落札できた人は幸せだと思います。
長崎で同じものを買おうとしても無いですから。
【専門店としての品格】
長崎市浜町アーケード街・浜屋百貨店そばでべっ甲の専門店をさせていただいていた頃
「鼈甲の簪を買うために東京から来ました」
と仰って来店してくださるお客様が1年に数名いらっしゃいました。
「綺麗な簪がこれだけたくさん並んでいると圧巻ですね。
東京にはこれだけ質量ともに充実しているお店はない。
飛行機代を払って長崎まで来てよかった」
という身に余るお言葉を掛けていただいていました。
そのむかし 祖父はお客様お一人お一人に合わせてご要望を伺いながらデザインを描き
オーダーメイドの簪をおつくりしていました。
そういう経緯がございましたので
お店のメインスペースには売れ筋商品である洋装のアクセサリーではなくて
櫛笄をお並べしていました。
メインスペースに売れるものを並べるのはお土産屋さんの流儀
自信を持ってお買い上げいただきたい商品をメインスペースにお並べするのが専門店の品格
という位置づけでした。
【包装紙を巡るお話】
祖父から折に触れて言い聞かされてきた言葉があります。
「東京の人たちは大切な方へ何かを贈るとき
わざわざ電車に乗って時間をかけて日本橋三越まで出向いて購入する。
近くのお店で売っているものであっても三越の包装紙に包んであることに意味がある
優良品しか扱わない三越のお眼鏡にかなった厳選された逸品をお送りしなければ
先様に対して失礼になる ということ。
うちは鼈甲業において世間様からそういう評価をしていただけるようにならなければいけない
という思いを込めて三越百貨店と同じように紙をたくさん使う三つ折りの包み方を続けてきた。
包装紙をただの包み紙だと思ってはいけない。
お店にとって包装紙はいちばん大切なものだから」
「石丸文行堂(当店の向かい側の文具店)には頭が良くて絵が好きな東京の美術大学に通う息子さんがいらして
学徒出陣で出征したまま帰らぬ人になってしまった。
うちの包装紙は その息子さんに描いてもらったもの。
何度も描き直しながら心をこめて描画してくれた。
彼が遺してくれたものを大切に使っていくことが彼に対する川口としての礼儀
包装紙のデザインを描いてくれた人の思いに恥じるようなものを売ってはいけない。
売れるものであれば何でも売る というお店になってはいけない」
当時 20歳代前半のわたくしは
「たかだか包装紙 そんな大げさな」 と思っていましたが
祖父母や父に対してデスマス調の敬語で話すように
物心ついた頃から母に厳しくしつけられてきましたので
鬼より怖い祖父に意見することはできませんでした。
しかし多くの お客様から
「この黄色の包装紙 見覚えがある。
長崎出身の知り合いからもらった鼈甲がこの包装紙だった。
『眼鏡橋やグラバー園.平和公園 観光地にあるお土産屋さんの鼈甲店に行くと
2~3人のおばさん販売員に取り囲まれて無理やり買わされることになるよ。
鼈甲を買うんだったら 面倒だけど 浜町まで足を伸ばしたほうがいい』
と言われたので訪ねてきました」
というお話を何度も伺いました。
長崎出身の方から書いてもらった地図を握りしめて店頭に立ち止まって看板を見上げながら
店内に入って来られる光景を何度も目にしました。
わたくしはお客様から 包装紙の重さ を教わりました。
包装紙をリニューアルするにあたり
石丸文行堂の石丸忠重社長にお礼と報告に伺いました。
「うちのおじいちゃんの時代にそんなことがあったとは まったく知らなかった。
うちに遠慮しなくていいから」 と快諾していただきました。
動物愛護 亀さんが可愛そう 自然との共生 美を求める文化 ・・・
これらのことを文字ではなくて絵で伝えることができる人に包装紙のデザインをお願いしたい
当時 お仕事を一緒にしていた東京のデザイン事務所勤務の井上里枝さんに相談しました。
「この難しい仕事ができるのは版画家の山本容子さんしかいない。紹介してあげようか
でも いま あちこちから引っ張りだこの山本さんが川口の仕事を受けてくれるかどうかはわからないけどね」
ということでお話がまとまりました。
たかだか田舎の個人商店 たかだか包装紙に家が一軒建つほどのお金をかける
長崎浜町商店街の友人達から
「大きな印刷会社だったらどこにでもあるような包装紙のデザインを無料でつくってくれるのに」
と失笑されました。
包装紙を新しくして半年後に鼈甲の原材料の輸入禁止が決まりました。
10年後にはわたくしが体を壊して完全閉店しました。
オークションに出品させていただくようになり取引ナビを介して多くの方々から
「完璧な梱包.写真と同じラッピングの素晴らしさ.これほど丁寧なラッピングははじめて
そして 写真よりきれいな商品 ‥‥」
という身に余るお言葉を頂いています。
皆様に感謝するばかりでございます。
【商品デザインについて 】
店舗改築に携わった乃村工藝社東京本社の設計デザイナー氏が初めて長崎浜町の旧店舗を訪れたときの第一声】
川口の商品には色気がある
色気とは女性の胸のふくらみのようなもの
女性は美しく輝きたいという想いで色気のあるアクセサリーに惹かれる
男性は女性から好かれたいと想い色気のあるアクセサリーを好きな女性に贈る
色気は装飾品の生命線
川口の商品はあなたのおじいさんが描いた図案が元になっている
あなたのおじいさんには会ったことはないけれど
商品を見ていると おじいさんが考えていたことがわかるような気がする
女性が身につける装飾品の真髄を熟知しておられた
女性のことが大好きで
女性からも好かれていた
いい意味での 粋な人 そんな気がする。
【川口鼈甲店・ウインドウショッピング】
ウインドウショッピング という言葉があります。
店舗のショウウインドウを見てまわること
消費者にとってウインドウショッピングは購入準備のための行動
見てまわることが楽しみである
という定義付けがされています。
ロンドン.パリ.ローマ
ヨーロッパの主要都市のメインストリートのお店は閉店後も
店頭のショウウインドウがライトアップされている
しかし長崎市のメインストリート・浜町の商店街は閉店後は暗くなる
お店をリニューアルするのだったら
閉店後もナイトショッピングができるようにショウウインドウの明かりは消さないでほしい
という要望が東京出身の長崎新聞の記者の方からありました。
その提案をすべて反映させたお店をつくりました。
作家の永六輔氏.デザイナーの柳川光雄氏.べっ甲職人の佐々木彰一郎氏から
異口同音に言われました。
「職人は秘伝と言って自分の技術を人に伝えたがらない
でもそれは間違っていると思う
自分が苦労して創り上げたものは惜しげもなく人に伝える
伝えることによって自分は日々新たに精進を重ねていく
それが ”ほんもの" なのではないか
新しくつくった鼈甲製品をショウウインドウの真ん中に並べましょう
そして閉店後に長崎の鼈甲屋さんたちがデザインを模倣しに来る
お店が閉まっているから写真撮りもデザインのデッサンも自由にできる
それで試作品を作ってみた
でもどこか違う
手の内は全部オープンに見せてもらっているのだけど
どうしても同じものをつくれない
それでこそ 川口が 鼈甲 における ブランド ということの証になる
真似したければ真似してみな
簡単に模倣できるようなものは商っておりません
それが 粋 というものなのではないか」
五代惇著「老舗の商法・のれんに生きる東京の70店」というご本を介して
東京の季節は銀座和光のショウウインドウからはじまる
という言葉を識りました。
長崎の季節は川口のショウウインドウから ….
と長崎の人達に云って頂けるようになりたいという祈りにも似た想いで
装飾を施していました。
【長崎・軽井沢・川口鼈甲店】
1997年春 郷土史研究史跡探訪グループ・長崎史楽会の会員の御老人が
西友長崎道ノ尾店で展示会をしていた会場へ訪ねて来られました。
「長崎新聞で川口鼈甲店 が 浜町のお店を閉店したことを知った。
私の先代は大正時代に船大工町の川口鼈甲店のお隣で鍛冶屋をしていた。
当時長崎の商人は目の前の商いで手一杯だった。
しかし川口の創業者は
長崎で繁盛しても東京で認められなければ自分が商っているものは本物とはいえない.
だから東京にお店を出す… と言っていた。
当時 長崎の鼈甲は外国人が買っていた。
川口はその利益をすべて東京出店に費やした。
横浜市元町と東京市新橋にお店を出した。
長崎と東京は汽車で30時間以上かかっていた時代のこと
皇族方宮内省各宮家御用達になり.昭和天皇結納品の鼈甲化粧セットを納めた。
夏季には政府高官.各国の大公使が軽井沢に避暑に行くので軽井沢に出張所を設けた。
大正12年 関東大震災で東京.横浜の支店は全焼した。
太平洋戦争の最中 鼈甲の原材料は輸入できなかった。
昭和23年 川口の先々代は神田の旅館に宿を取り
長崎県庁東京出張所所長の渡辺氏と二人 管轄官庁の門前に座り込みをして
一か月通いつめることで官庁関係者が根負けしてべっ甲原材料玳瑁亀の輸入再開 にこぎつけた。
川口の先々代がいなかったら 今現在 鼈甲は日本国内の店頭に並んでいない。
太平洋戦争という地獄を経て鼈甲細工は消滅しなかった。
あなたは自分のお店の閉店は自分のお店の歴史に過ぎないと思っている。
でもそれは違う。
川口鼈甲店の生き死には 鼈甲文化の生き死にそのものなんだ。
あの悲惨な戦争を生き延びてきた。
鼈甲の原材料の輸入禁止は日米の経済摩擦によるもの
太平洋戦争とは違って経済戦争で人の命は奪われない。
経済戦争なんかで負けてはいけない。 ここで終わってはいけない。
このことをあなたに伝えなければ私は死んでも死にきれない。
今 こういうことをあなたに伝えることはとても残酷なことだと思う。
でも ここで諦めないで頑張って欲しい 」
お酒の勢いを借りてお話をしに来てくださったその御老人の言葉が
わたくしの頭の中から離れることはありませんでした。
1993年 永六輔さんのラジオ番組宛に鼈甲についての思いを綴った葉書を出しました。
それがきっかけで 永六輔さんと親しいお付き合いをさせていただくようになりました。
年に数回お目にかかってお話をさせていただいていました。
2005年3月 近況報告の手紙を書きました。
ラジオ番組や講演会で永さんがわたくしのことを語ってくださいました。
「長崎で 川口 といえば 鼈甲 です。
長崎の目抜き通りの真ん中に堂々としたお店を構える押しも押されもせぬ老舗です。
色々なことがありました。お店はなくなりました。
川口は体を壊しました。
いま 川口は転地療養のため軽井沢で暮らしています。
そして体調が良くなってきました。
僕も若い頃 体がとても弱かったんです。
信州小諸・軽井沢で疎開生活をしているときに元気になりました。
だから信州での転地療法が身体にいいということはよくわかるんです。
身体が弱い人が信州で暮らすとみんな元気になるということではないのですが,
元気になった川口は軽井沢で鼈甲のお仕事を再開しようとしているんです。
でも 今現在 お店はない。
お店はないけど 何かをしようとしている。
いまはまだ 鼈甲といえば 長崎 です。
でも 近い将来 日本じゅうの鼈甲愛好者のなかで
べっ甲といえば軽井沢 と云われるようになると思います。
だって 僕の友達である川口が軽井沢で鼈甲のお仕事を再開したのだから。
皆さんこのことを 頭の隅に留め置いていてください」
周りの人達から言われました。
第一級の文化人である永六輔からこれだけのエールを贈ってもらっていて
決起しなかったら漢 (おとこ) じゃない…」
そして思いました。
「身体が壊れているのだから そんなことを言われても困る。
何より自分はそれほどの人間ではない」
以後 永さんとの距離をあけました。
それでも永さんの言葉はいつも心の奥で響いていました。
25年以上のお付き合いのある長崎在住の女性の友人がいます。
雑誌の編集 全国誌の旅行ガイドの長崎版の制作に携わっている人です。
2017年12月30日 お互いの近況報告を兼ねて2時間ほどお電話で情報交換をしました。
「長崎といえば カステラ そして 鼈甲
鼈甲 といえば 長崎
川口鼈甲店が長崎の街からなくなってもうすぐ20年
鼈甲といえば長崎 というんだったら
長崎の鼈甲屋さんには川口のオークションの商品と同等もしくはそれ以上の商品が並んでいなければおかしい。
でも長崎の鼈甲屋さんの商品には
いまどき こんなもの誰が買うの…? というものしか並んでいない。
長崎といえば鼈甲 鼈甲といえば長崎
それは川口鼈甲店のべっ甲のことだったような気がする。
Yahooオークションの川口の鼈甲製品は20年以上前のもの
それなのに いま 長崎のどの鼈甲屋さんに並んでいる商品よりも新鮮な輝きがある。
オークションは それなりのものをそれなりの安い値段で買うためのもの
でも 川口の オークションはそうじゃない。
次から次に目新しい商品が出品される。
大げさな言い方をすると
世界の名画をオークションで落札して入手する
そういう異質の空気感がある」
と言われました。
それぞれの人たちのそれぞれの言葉がひとつの流れとして繋がりました。
鼈甲の原材料の輸入禁止を日本政府が決めて四半世紀の時間が流れました。
それでも 鼈甲製品を身につけたいと思ってくださる方々がおいでになることで
ひとつの文化の華を紡いでいくことができている。
オークションに入札してくださる方々への感謝
それがすべてでございます。