監修
千宗室 裏千家 家元?
顧問
千宗左 表千家 家元?
千宗守 武者小路千家 家元?
藪内紹智 藪内流 家元?
小堀宗慶 遠州茶道 宗家 遠州流
山田宗偏 宗偏流 家元?
淡交社
1982年 初版
金箔押し布張り上製本
作品写真図版フルカラー
解説写真図版モノクロ
30.5x21.6x2.5cm
206ページ
定価記載なし
※絶版
日本の茶道六大流派の各家元?・宗家が監修した、
国宝・重要文化財、名物、大名物、中興名物はじめ、茶道美術の正真正銘・本物の中の本物・最高峰の
茶道具ばかりを集めたフルカラー写真図録本全集「草人木書苑」のうちの一冊。
本書は 絵画 48点。国宝、重要文化財級の作品中心に厳選。
茶席の床飾りにふさわしい最高格の南宋?画、禅画、山水画、花鳥画、日本画の
写真図版はすべてカラー写真。
特に本書では一般の絵画作品集とは異なり、茶道美術上大切な、床の間に飾る際にイメージできるように、
表具について(一文字、風帯、中回シ、上下)金襴、緞子などの、裂の取り合わせも重要な見どころとして詳細が記載されています。
箱書きや書付・添状など付属物、画賛、略伝、伝来、寸法、古文書などの所載、作品の見どころや由緒、作家についてなど詳細に解説したもの。
主なものは外箱、内箱、箱蓋裏、花押署名、印章の写真画像なども収載。
内容充実の、茶道・骨董品・茶道具・日本美術・東洋美術・唐?物・中国美術など愛好家必携、大変貴重な資料本です。
【刊行のことば 千宗室】全集全体の序文
日本の茶道は、その成立の初期から今日まで、綜合的な文化体系として、日本人の生活文化の基調としての役目をはたしつづけている。
日本人固有の審美的な美意識から、茶室・茶庭といった建築空間の構成、各種道具の生活工芸としての造型、点前作法に見る坐作進退の姿勢、懐石を中心とした飲食の意匠性まで、日本人の生活基盤のなかに、ふかく根ざして、伝統的なくらしとなって生きているのである。
ところで、この茶道の真髄を把握するためには、どうしても通らなければならない関門のあることを忘れてはならない。それは、茶道を構成する道具に対する知識と鑑賞眼の琢磨である。実は、茶道の極意は、この第一の関門を初歩としながらも、これを究極とするとも言われるものである。
目利ニテ茶湯モ上手、数奇ノ師匠ヲシテ世ヲ渡ル(茶湯者卜云、一物モ不持、胸ノ覚悟一、作分一、手柄一、此三箇条ノ調タルヲ侘数奇卜云々 唐?物所持、目利モ茶湯モ上手、此三箇モ調ヒ、一道二志深キハ名人卜云也
と『山上宗二記』にあるように、茶道具の鑑賞が、古来、如何に重視されていたかがわかる。だから、今日の茶道を、文化遺産として考えるとき、精神文化さえもが、道具を中心とした造型遺産に内包されると考えてもよいのである。
このたび『茶道美術全集』の刊行を企図した。それは、茶道の造型遺産をとおして、茶道の美の真実を体系化することにある。
幸いにして、多くの読者諸賢とともに、美の宝庫の中に遊ぶよろこびをわかちあい、明?日への茶道人の歩みの資たらしめんとねがうのである。
【目次】
原色図版
徽宗皇帝 桃鳩図 国宝
徽宗皇帝 水僊鶉図 重文
伝李安忠 鶉図 (表具なし)国宝
梁楷 踊布袋図 大川普済賛 重文
梁楷 李太白図 重文
梁楷 釈迦出山図 重文
梁楷 六祖経破図 双幅の内重文
梁楷 六祖截竹図 双幅の内重文
梁楷 寒山拾得図
梁楷 酔翁図
伝梁楷 六祖慧能図 子元?祖元?賛 重文
牧谿 叭々鳥図 叭
牧谿 敗荷鶺鴒図 双幅の内
牧谿 枯芦翡翠図 双幅の内
牧谿 遠浦帰帆 瀟湘八景図の内 重文
牧谿 平沙落雁 瀟湘八景図の内 重文
牧谿 煙寺晩鐘 瀟湘八景図の内 国宝
牧谿 漁村夕照 瀟湘八景図の内 国宝
伝牧谿 柿絵 重文
伝牧谿 竹雀図 重文
玉澗 洞庭秋月 瀟湘八景図の内 重文
玉澗 山市晴嵐 瀟湘八景図の内 重文
玉澗 廬山図 自賛 重文
玉澗 瀑布図 断簡 重文
因陀羅 寒山拾得図 楚石甃琦賛 国宝
因陀羅 三教図 清?拙正澄賛
伝馬遠 高士観月図 重文
伝馬遠 風雨山水図 国宝
伝馬麟 雪江独釣図 重文
李迪 紅芙蓉図 双幅の内 国宝
李迪 白芙蓉図 双幅の内 国宝
伝夏珪 風雨山水図 重文
達磨図 拙庵徳光賛
無準師範 達磨図 三幅対の内 自賛
無準師範 郁山主図 三幅対の内 自賛
無準師範 政黄牛図 三幅対の内 自賛
門無関 布袋図 無準師範賛
布袋図 無準師範賛
伝趙昌 林檎花図 国宝
孫君澤 楼台遠望図 双幅の内 重文
孫君澤 渓泉清?興図 双幅の内 重文
黙庵霊淵 五位鷺図 楚石梵琦賛
伝胡直夫 布袋図 偃谿廣聞賛
祥啓 山水図 重文
伝周文 山水図 横川景三賛 重文
伝周文 蜀山図 江西龍派・一条兼良賛 重文
伝周文 秋景山水図
伝周文 三益斎図 八禅僧賛 重文
松谿 楼閣山水図
芸阿弥 観瀑図 横川景三ほかニ僧賛 重文
伝雪舟 溌(破)墨山水図 横川景三賛
雪村 風濤図 重文
遠山時雨小色紙 歌小堀遠州筆 絵狩野探幽筆
尾形乾山 紅白萩図
総説 衛藤駿
図版解説 衛藤駿
系譜 中国画の日本移入系譜(唐?、北宋?、南宋?、元?時代?)山水画・花鳥画 十四世紀?を中心とした日本水墨画の系譜
付録
舶載唐?絵目録抄
「仏日庵公物目録(絵画関係抄出)」
「御物御画目録」
「君台観左右帳記」
【表具 各カラー図版横に記載】一部紹介
徽宗皇帝 桃鳩図 国宝
一文字 茶地興福寺古金襴
風帯 同
中回シ 萌黄地安楽庵ニ重蔓小牡丹古金襴
上下 白地安楽庵ニ重蔓小牡丹古金襴
足利義満所蔵印
徽宗皇帝 水僊鶉図 重文
一文字 紫地印金
風帯 同
中回シ 茶地宝尽古金襴
上下 白地石畳緞子
梁楷 李太白図 重文
一文字 萌黄地印金唐?草
風帯 紫地二重蔓印金
中回シ 同
上下 白茶地牡丹唐?草緞子
ほか
【総説】より一部紹介
床の間の誕生
日本で、絵画や書蹟が、床の間という場所で、純粋に鑑賞されはじめたのは、およそ西暦1400年前?後のことである。
もちろんそれ以前にも、絵画は制作され、鑑賞されてはいるが、鑑賞者の意志によって作品が選択され、評価され、享受されるためには、一つの環境、つまり鑑賞の場が必要になった。それが床の間である。
現在の床の間のことを、室町時代?には押板といった。押板がいつ、どうして生まれたか、どんな形のものであったか、そしていつごろから床の間と呼ばれるようになったか、についてはよくわかっていない。しかし、たとえそれが仏画をかけ、三具足を前に置いた祭壇であったにせよ、絵画や書蹟を鑑賞するために考えだされた一つの装置であったことは確かである。
掛幅仕立ての絵は、どこかに掛けなければ鑑賞することができない。ところが、従来の寝殿造りの室内には絵をかける適当な場所がない。座敷に屏風を立ててそれに絵をかけたという記事が『看聞御記』にあるが、現在のこっている中世の絵巻物でみても、じつにいろいろなところに軸をかけている。『君台観左右帳記』にも天井の回縁や小壁に絵をかけている図があるが、あまりおちつきのよいものではない。同じ座敷でも、庭に面するところや隣室との通路のようなところではぐあいがわるいから、結局絵をかける場所はかなり限定されてくる。とくに絵の前に三具足を置くという習慣もあったから、その置き場所も考えねばならない。そうなると、絵をかけて鑑賞するための特別な装置を設けたほうが万事好つごうとなり、そこで考案されたのが押板、つまり今日の床の間のような壁龕であった。
この押板に、付書院、飾り棚といった付属設備のついたいわゆる座敷の成立は、日本の住宅建築における典型的な生活空間の一つの完成であった。茶室もまたこのような座敷を母胎として生まれたもので、いちだんと高次の、いわば精神生活空間とでもいうべきものに成長し、絵画にとってもっとも重要な鑑賞の場となったのである。
今までの絵画の歴史は、いつ、だれが、どこで、何を画いたか、という創作の側からみた作品の歴史に終始している。そこでは絵の様式、たとえば構図や筆致、彩色の方法といったものが個々の作品について考察され、それらの作品が制作された時代?背景との関連が捉えられる一方、作者の伝記や画題の意味などがもっぱら研究の対象とされてきたのである。
これに対して、絵画を鑑賞し、評価する側の歴史、つまり享受の変遷といったものについては、あまり体系的に考えられたことがなかった。鑑賞されることのない絵画は、芸術として無価値であるとするならば、絵画が、いつ、だれに、どのようにして鑑賞されてきたかという、鑑賞者の立場からみた絵画史、いわば「床の間の絵画史」とでもいうべきものが考えられてもよいのではなかろうか。それは特定の人や時代?の趣味や嗜好に左右された主観性の強いものになるかもしれないが、床の間という場所で、時間、空間を超越して展開された人間の心の、有為変転の歴史とでもいうべきものになるのではないか。同時にそれは、絵画という現実に存在する媒体のなかに表現されているところの芸術世界が、いかに鑑賞者の心に反映したかという興味深い事実を伝えることにもなろう。
床の間は、絵をもっとも純粋に鑑賞するためにくふうされたもの、といったが、1400年前?後に、どうしてこのような精神生活上の舞台装置が成立することになったのであろうか。それは中世における日本人の自然観の変化、禅宗の影響、そして中国宋?元?画の移入など、さまざまな文化的要因から生じた一現象であり、人間が画中に存在する芸術世界のなかに自己を位置づけるための、新しい空間の創造であった。
ではいったい、このような鑑賞態度を醸成した中世における日本人の精神的土壌とでもいうべきものは、どのようなものであったのだろうか。
中世の心
「桐一葉落ちて天下の秋を知る」ことは、鎌倉時代?の弘安五年(一一八二)中国から来朝した禅僧子元?祖元?の語録にあり、その出典は前漢の学者淮南子の精神訓に由来するもので、日本人の発想ではない。しかし日本人特有の自然に対する鋭敏な感受性は、桐の一葉が散るという些細な自然現象のなかに人の心を投入し、秋を感ずると同時に自己の運命をみつめることができたのである。
このような日本人の心情は、万葉の素朴さにはじまり、王朝のはかない幽玄世界をへて中世に受けつがれたものである。日本の自然は中国大陸のそれと異なり、おだやかで微妙であり、自然の猛威も死に至るほどではない。人々は四季おりふしのなかに変転する自然の外貌、つまり雪月花をめでることができたのである。しかし、この安穏が逆に中世に至ってこの世の無常を示すことになる。花に嵐という自然現象は、肉体に危害を及ぼすことはないが、心の問題として「もののあわれ」を象徴した。せっかく花開いた桜が、その美しさを誇ろうとするやさきに、嫉妬深い狂風が花の夢を散らせてしまうからだ。それは栄華を競う日常生活のなかにあって迫りくる死の影を恐れていた貴族たちの心に敏感に反応し、世の無常を悟らせたのである。(以下略)
【図版解説】より一部紹介
1徽宗皇帝 桃鳩図 国宝
付属物 内箱 書付 人見友元?筆
内箱 秩 外箱書付 人見七郎右衛門筆
外題 二 相阿弥・狩野常信筆
口上および目録 鴻池善右衛門より井上馨あて
伝来 井上家
所載 古今名物類聚
寸法
全体 縦一ニ四・〇cm 横四一・五cm
画面 縦二八・三cm 横二六・〇cm
日本に現存する宋?代?絵画中の白眉であり、中国画の代?表的遺品の一つ。
徽宗皇帝(一〇八二~一二二五)は、絵画はもとより、詩に、音楽に、書に、そして造園、陶磁におよぶ芸術全般の創作と鑑賞に、たぐいまれな才能と情熱を傾けた人である。しかし為政者としては失格で、宋?朝はために亡国の非運にあうが、宋?代?の芸術は中国のみならず世界文化史上に一つの極限を示すものとして、不滅の輝きをもったのである。
桃の小枝に一羽の鳩がまるく身を寄せている。ただそれだけの絵であるが、悠揚たる気品がただよい、まさに天賦の才によってのみ伝えられる宇宙の神韻をきく思いがする。痩金体といわれる鋭い細みの書風によって記された款記にある「大観丁亥」は一一〇七年、徽宗二十六歳にあたるが、この風流天子の天稟の資質を十分に示している。
画面左下隅にある朱文二重廓長方印「天山」は、足利義満の所蔵印である。
(画像)
内箱 書付 人見友元?筆
内箱 秩
外箱 書付 人見七郎右衛門筆
5 梁楷 李太白図 重文
付属物 内箱 外箱
伝来 松平不昧
寸法 略
所蔵者 東京国立博物館
梁楷は南宋?寧宗の嘉泰年間(一ニ〇一-○五)に画院の待詔として、画家の最高の栄誉である金帯まで賜わったほどの技倆の持ち主であるが、梁楷の真の個性は文人的であり、筆数の少ない減筆体をもって世に問うたのである。
本図は酒好きの詩人李太白が、ほろ酔いにそぞろ歩きする姿を、梁楷得意の減筆体によって表現している。千鳥足のもつれぐあいが、裾の乱れとそこからのぞく足もとの勁きのなかに巧みに捉えられ、前面の衣文線は外ぐまによって引かれ、袋状の身体が月光に照らされた一人の詩仙の姿を浮き出させている。
図上に捺されている大印は、元?の宮廷で使われた八思巴文字と考えられているもので、本図が元?朝の所蔵であったことを示している。また本図は、かつて同じ梁楷の「東方朔」図と対幅であったことが、東京国立博物館にある
(東方朔は、前漢の人。宇は曼倩。山東の出身で、武帝に仕えたが奇行多く、長寿で名高い)
落款「梁楷」。
(画像)
内箱
外箱
11牧谿 叭々鳥図
付属物 内箱黒塗
外箱 書付 松平不昧筆
外題 相阿弥筆
伝来 足利義政-徳川家康-徳川家光-堀田家-若狭屋宗可-松平不昧
所載 古今名物類聚 津田宗達記
寸法 略
中世に舶載将来された中国画のなかで、日本人の心に、もっとも大きな感動を与え、畏敬の念をもって鑑賞せられたのは牧谿の作品であろう。牧谿筆と伝えられる作品は、鎌倉時代?の末葉からしだいに数をまして日本に移入され、後世の日本水墨画の制作と鑑賞の両面に大きな影響を与えている。
日本人が牧谿画に見いだしたものは、墨の濃淡、筆勢の強弱というものが、いかに豊かに万物の情感を表象しうるかということと、筆法がその速力と表情とによって、いかに対象のもつ律動を把握しうるかという点である。
本図は一羽の叭々鳥の背に、孤高清?爽の趣を感じさせる名画である。描写は気力にあふれ、陽光に映える樹幹、漆黒の羽毛、松毬を伴う松葉はだかいに調和し、明?暗おのずから定まっている。天稟の才は、絵画という限られた二次元?世界のなかに、大自然の機微を端的に表現することができたのである。
「牧谿」白文方印。
(画像)
牧谿印
内箱 黒塗 書付 金粉文字
外箱 書付 松平不昧筆
ほか