本べっ甲製 ブローチ
縦 約3.7センチ(最大部)
横 約4.4センチ(最大部)
厚さ 約5ミリ(最厚部)
金具 金メッキ
キュッと紐で結ばれた大小2つのふっくらとした瓢箪をデザインしたブローチでございます。
瓢箪は果実の中央が括れたかたちに趣向がある縁起物として
古くから文様に取り入れられてきた意匠です。
木下藤吉郎 (豊臣秀吉)
の馬印として使われた小型で多数の実をつける千成瓢箪が有名かと存じます。
最高級のあめ色の原材料を充分に重ねて厚みを取り
丸味を出すためにかたちを整えていきます。
鼈甲アクセサリーの写真を見たときに
出来上がりが安っぽく稚拙なかんじがする商品は
厚みが足りないためにふっくら感や立体感が表現できていないものです。
また細かな部分を雑に仕上げますと鼈甲装飾品としての格や位置づけが途端に下がって
2級品となってしまいます。
この商品は実際の瓢箪よりも丸く描き
紐の部分も結び目の自然さが出るように丁寧な仕事を施しています。
表情豊かな上質の商品に仕上がっているかと存じます。
あめ色一色の高級ブローチとして
また帯留として
訪問着や小紋などにお使いいただきますと
装いがグレードアップいたします。
先週 お世話になっている方からとらやの水羊羹をいただきました。
包装紙にさり気なく
縦書きで
「御菓子司 とらや 京都 東京 パリ」 と
書いてありました。
鼈甲の原材料が突然輸入禁止になることなく
商いを恙無く続けていけたと仮定したとき
長崎 東京 パリ 川口鼈甲店
と包装紙のシールの角
に
さり気なく横書きで
追記していたはずなのに
という想いに胸を抉られました。
ネットで調べました。
とらやパリ店40周年記念菓子
という文字が目にはいりました。
一度は とらやさんの背中を追いかけようとしたのに
という無念が頭を過ぎりました。
木下藤吉郎が稲葉山城落城を信長本隊に知らせる合図として槍の先に瓢箪をつけた。
信長はその功績を大いに喜び瓢箪が秀吉軍の馬印になった。
そして豊臣秀吉の快進撃がはじまった。
この逸話が頭の中にあったからでしょう。
パリのお店には瓢箪の鼈甲アクセサリーを展示したい
と考えて準備していたことを思い出しました。
それが今回の瓢箪のブローチ出品の経緯でございます。
この商品も長崎大阪京都東京にあるべっ甲店では決して手にはいらない
川口ならではの逸品のひとつでございます。
この商品はヤマト運輸のVIP扱いで発送させていただきます。
長崎市浜町アーケード街・浜屋百貨店そばでべっ甲の専門店をさせていただいていた頃
年に数人 東京から高額の鼈甲製品を買うために
足を運んできてくださるお客様がいらっしゃいました。
「銀座や浅草でも手にはいるけど商品が少ない
沢山の商品のなかから選びたいので
長崎の商店街の真ん中にある鼈甲屋さんがいいものを持っていて
お値段も安いから飛行機代を払っても出かける価値がある
とお友達から教えてもらったので来ました」
「長崎出身の知り合いから聞いてきました」
と口々に仰っていました。
祖父は常々そういう方々を大切に考えていました。
店頭にはお並べしないで特別なお客様にだけ見て頂く商品を入れた箱を
奥の部屋に準備していました。
わたくしはその箱を 美しいもの(玉)がはいっている手箱 という理由で 「たまてばこ」 と呼んでいました。
月日が流れて代替わりいたしました。
パリシャンゼリーゼ通りの一角にPETITショップを出店したいと思うようになり
日本文化の美しさをパリの人達にお
伝えするための
美術工芸品を
コレクション感覚で集めるようになりました。
そしてパリの街のショウウインドウを飾る鼈甲製品を入れた箱を
フランス語の箱という意味の単語
ボワット というようになりました。
パリコレクションという言葉は日本人がつくった造語であることを知りました。
パリの人達は パリファッションウィーク というそうです。
パリコレという言葉に愛着を感じました。
それでわたくしの願いと希望を託したコレクションボックスを
パリコレ
ボワットと呼ぶようになりました
。
そしていつの頃からか
店頭にはお並べしていない特別な商品を入れた箱 ということで
たまてばこ と
パリコレボワット は同じ箱になっていました。
今回 10,000円前後のPETITシリーズの出品に合わせて
パリコレボワット
の商品をときおり出品させていただくことにいたしました。
これらの商品は ずっと自分の手元においていたい 大切なコレクションです。
胸を抉られるような
痛みと
悲しみがあります。
しかしながら わたくしが彼岸へ旅立つときに鼈甲を持っていことはできません。
絶版になった名著と云われる書籍が
東京神田神保町の古書専門店を介して
その価値を熟知している人達の間で読み継がれ
著者の思想信条が
人類の共有財産として後世に語り継がれていることと同様に
美術工藝品の域まで技を極めた鼈甲製品も
文化史における共有財産として
その価値を熟知してくださる方が胸を張って身につけてくださることで
それを目にした人達の心のなかに刻まれ
後世に語り継がれていく
それが何よりも大切なのではないか
制作に携わった人たちの労が報われるのではないか
ひとつの伝統文化の終焉を迎えるに当たり
殿 (しんがり) のお役目を担う者の努め
いま現在現役でお仕事をしている職人にはつくることのできない
二度と手にはいらないものだから手放したくない
という自分の感情に左右されることなく
相応しい方の許へ商品をお届けすること
それに尽きる
と思うようになりました。
熟慮に熟慮を重ねたうえでの出品でございます。
苦渋の選択です。
鼈甲は英語では tortoiseshell トータスシェル
フランス語では ecaille エカイユ
ドイツ語では Schildpatt シルトパット
イタリア語では tartaruga タルタルーガ
スペイン語では carey カレイ
ポルトガル語では carapaa de tartaruga カラパサ・デ・タルタルガ
オランダ語では schildpad スヒルパッドゥ
ラテン語では testudinis dorsum テストゥーディニス・ドルスム
ロシア語では черепаха チリパーハ
中国語では 海甲
です。
鼈甲は中国で考案されて西洋人に愛用された美術工芸品 です。
自然の美しさを生かして育んできた文化のひとつでございます。
【鼈甲・ふらんす物語】
1980年代後半 わたくしが27~28歳の頃 長崎でのお話です。
7歳年上の本田時夫氏(和洋菓子 長崎梅月堂)と月に1~2回 お酒をご一緒させて頂いていました。
本田氏は青山学院大学経済学部
卒業後に2年間パリの菓子店で修行をしていた人でした。
お酒がすすむとパリの話になりました。
様々なジャンルの話題になりました。
わたくしは本田氏が話している言葉の意味がまったく理解できませんでした。
深い教養の持ち主の正面に立つとき メッキは一瞬で剥げ落ちてしまうものです。
自分が粗野で無教養の取るに足らない存在であることを思い知らされました。
その当時 梅月堂のキャッチコピーは
「おいしい文化を贈ります。長崎梅月堂」 でした。
文化とは何なのか
それすらわかりませんでした。
「考えていても答は出ない。兎にも角にもパリに行こう」
と思いました。
一週間の予定で単身パリに出かけました。
シャンゼリーゼ通りの街路樹の豆電球の照明
金物屋さんの店頭に並べてあるやかんの並べ方がおしゃれ
エールフランスの飛行機のシートカバーの布のカットが丸みを帯びていて色気がある
見るもの聞くもの 感動の連続でした。
センスの良さ オシャレ感覚 芸術に彩られた装飾
同じ人間社会 長崎や東京で見る光景と同じはずなのに何かが違う
何がどう違うのかを表現する言葉は見つからないけれど何かが大きく違う
もしかしたらこれが文化というものなのかもしれない
首を傾げながら長崎に帰りました。
酒席で話す本田氏の会話の内容 空気感が理解できるようになりました。
そして
稼業である鼈甲のお店を継承していくためには パリで通用するデザイン力が不可欠なのではないか
と思うようになりました。
鼈甲の製作技術は中国で考案された技法です。
中国からヨーロッパへ渡り西洋人に珍重されました。
そして
江戸時代に
ヨーロッパから長崎に伝わりました。
明治になり外国からいらしたお客様に自由にものを販売できるようになりました。
鼈甲はヨーロッパより長崎のほうがつくりが緻密で優れている
と西洋人に認められたことで鼈甲細工は長崎で文化の華を咲かせました。
そういう歴史を鑑みるとき
川口の鼈甲が再び西洋人に評価されても良いのではないか
という想いが日に日に膨らんでいきました。
1980年代後半 ミラノやベニス パリには鼈甲を売っているアクセサリー店が何軒もありました。
パリで生まれ育った女性 パリジェンヌに認めていただいて初めて文化と呼べるようになるのではないか
パリの表通りの何処かのお店にショーケース2個でいいから川口の鼈甲を展示販売したい
そしてゆくゆくは小さなお店 PETIT(プチ)ショップを出したい
室町時代後期に京都で創業した高級羊羹の老舗 虎屋黒川氏
和菓子という日本の文化を
パリの人たちに
押し付けるのではなくて
フランス人の好みに合わせて和菓子を提供するお店をパリで展開していて
とらやさんと川口では歴史も伝統もすべてにおいて比較にならない。
それでもとらやさんの10000分の1ぐらいの規模であれば川口でもやれるはず
日本の美 日本の文化を彩る暖簾の末端を飾れるようになりたい
それがわたくしの商いに対する揺るがない指針になっていました。
年に一度 パリに出かけていました。
店舗の家賃などを具体的に調べました。
パリやロンドン在住の日本人のデザイナーと商品の打合わせをしていました。
パリに支店がある暖簾である川口の長崎本店はどういう店構えであるべきか
という視点で本店をリニューアルしました。
それでも周りの人に話すとそのままシャボン玉のように宙に舞い上がって消えて無くなりそうな気がしたので
ほとんど誰にも話すことなく独りで準備をしていました。
シャンゼリーゼ通りの一角に小さなお店を出したときに
報道機関に発表するつもりでした。
しかし 平成3年(1991年)6月19日 突然鼈甲の国際商取引全面禁止が決まりました。
夕方の遅い時間に長崎新聞と西日本新聞の取材がはいりました。
翌朝の朝刊には
「長崎の老舗 川口鼈甲店の若い店主 苦悩の表情で頭を抱える 店舗をリニューアルしたばかりなのに」
という文字が踊りました。
取材に際して
「パリにお店を出したいという夢が潰えました」
とは言えませんでした。
悪いときには悪いことが重なるものです。
不幸なことが続きました。
閉店まで追い込まれました。
そして2016年4月からヤフーオークションで皆様にお求めいただけるようになりました。
わたくしは1959年生まれです。
60歳台半ばに差し掛かります。
腎臓が壊れてしまっていて人工透析で命を繋いでいます。
あと何年生きられるか 最期のカウントダウンにはいっていることを感じます。
わたくしが彼岸へ旅立つとき
小柄なパリジェンヌを意識しておつくりしていた10,000円以下の
PETIT(プチ)シリーズ
の商品が
沢山手元に残ります。
廃棄処分するか骨董品店でガラクタと同じ扱いで販売されるか
二つに一つです。
べっ甲専門店のホームページに掲載してあるお値段が高くないアクセサリーの写真を見ました。
丸や三角や四角の模様をそのままぶつ切りにしただけの立体感のないもの
若い頃にべっ甲の原産国で現地の職人がつくっていたものに毛が生えたようなデザインのものばかり
人は
それぞれの高さを目指して
別々の山を歩いています。
十人十色 いろいろな趣味嗜好の方がいて良いのかもしれませんが
同業他店の商品と川口の職人がおつくりした商品
物心つかない子供の頃から豊かな芸術性に
囲まれて育ち
知らず知らずのうちに
深
い審美眼を身につけているパリジェンヌを意識したPETITシリーズ
ものが違う 次元が違う そんな気がしてなりません。
これまで10,000円以下の商品はあまり出品してきませんでした。
週に1点 身体に負荷がかからないペースで出品を続けてまいりました。
しかし 自分がいつまで出品や梱包をする体力を維持できるだろうかと思うとき
PETITシリーズの商品にも光が当たって欲しい
お気に召していただける方に愛用していただきたい
という思いが強くなってきました。
これからときおり PETIT という冠をつけて
1990年代 定価10,000円前後で販売していた商品を
出品させていただきます。
ほかのべっ甲店の安価な商品は日本の南方海域やインド洋の
黒っぽくてきれいではない原材料でできています。
素材がべっ甲である ただそれだけのものばかりです。
川口の10,000円前後の商品はカリブ海産のあめ色が混じった上質のきれいな原材料でおつくりしています。
製造原価やコスト度外視 きれいでなければ川口の鼈甲ではない
という
創業者から継承してきた姿勢に基づいています。
夢を語るの
は歩き始めてから
何ひとつかたちにできなかったのに
手が届かなかった夢を口にするのはいかがなものか
と思いつつ
2024年の夏 4年に一度のオリンピックで世界のアスリートがパリに集うというお祭に寄せて
30年以上前のフランスパリにまつわる小恥ずかしい昔語りを綴らせていただきました。
シンガポール・香港の鼈甲職人と
英語と漢字による筆談で語り合いました
インド洋に浮かぶモルディブ・セイシェルの鼈甲職人と
拙い英語で語り合いました。
カリブ海のドミニカ・ハイチ・ジャマイカの鼈甲職人と
英語と片言のスペイン語で語り合いました。
彼等は箱型のべっ甲製品をヨーロッパへ輸出していました。
ヨーロッパ在住の架橋の鼈甲職人と膝を突き合わせて語り合いたくて
ベニスやミラノ・パリの鼈甲を販売しているお店に足を運んで店主にお願いしたのですが
紹介してもらえませんでした。
川口の創業者である曽祖父が外国人に向けて書いた鼈甲の解説文
Tortoise-shell
ではなくて Bekkou
という固有名詞で統一されていました。
祖父は 世界の名品 鼈甲 という言葉をあちこちで使っていました。
鼈甲細工において世界の頂点を目指す
という信念を感じます。
中国から世界に広がった鼈甲
世界に点在していた鼈甲職人たち
いま現在 どうしているのでしょう。
Googleで 「パリ シャンゼリーゼ通り」 というキーワードで検索してみました。
忘れることのできない懐かしい光景がたくさん表示されました。
鼈甲とは川口の商品を指す言葉
口にこそしたことはありま
せんでしたが
祖父の立居振舞から感じ取ることができました。
そしてその想いを
かたちにするため
美意識に長けたセンスの良いお洒落な街 パリ を彩る輝きのなかで
ショウウィンドウの一角を飾れる暖簾になりたかった
日米経済摩擦による原材料の輸入禁止という運の悪さに苛まれることなく
パリシャンゼリーゼ通りのショーケースに商品をお並べしていることを思い描きながら
ヤフーオークションで商品紹介をさせていただきます。
2023年9月 諏訪中央病院名誉院長の鎌田實先生の新刊 「ちょうどいいわがまま」 という書籍が出版されました。
「行き詰まってきたら動いてみる」 という章のなかで
わたくしどものお店のこと
わたくしが病に倒れてからいまに至るまでの経緯
そして ヤフーオークションでの営業再開
滅びゆく鼈甲という文化について触れていただいています。
「川口の生き方は 一言でいうと わ が ま ま
我 が ま ま 我が思うままに 生きたいように生きている」
と仰っていただいたのは昨年の夏でした。
わたくし もうすぐ高齢者になります。
きれいな鼈甲製品を皆様にご紹介させていただける
そういう穏やかな日々が一日でも永く続いてほしい と
思いました。
【落札者様とのメッセージ交換のご紹介】
以
下の商品を落札してくださったお客様とのメッセージのやりとりを商品説明欄に転載させていただく旨を
お客様にご了承いただきましたので紹介させていただきます。
【定価
38,000
円・川口鼈甲店】新品 本べっ甲 かんざし
初めまして、落札者です。
川口鼈甲店様の商品をヤフオクでずっと前から拝見していて、素敵だなと思っていました。
当方
30歳手前ですので貴方様の客人としては若い方でしょうか。
日本の女ならば己の黒髪に鼈甲の一つくらい挿してみたいと思っておりいつか手に入れたいと思っておりましたが、これからは国内に残ったタイマイが無くなっていくばかりという話を耳にしてから、購入するときに満足のいくものが手に入るのは今が最後かもしれないと思い色々と探しておりました。
本当は晴れの日につけるような派手なものが好みで派手なものばかりが素晴らしいと思い込んでいたのですが、今回のオークションの説明文を拝読して考えを改めました。
ご祖父様の「鼈甲は オーソドックスで単純なデザイン 一見 簡単そうに見えるもののほうが実際につくるのは難しい。 左右対称に見えるようにつくれる職人は少ない。」というお言葉はまさにその通りだと考えさせられました。
褻の日に使える上等なものを纏うことこそ最高の贅沢なのかもしれないと思います。
そのような贅沢を味わえるのは今回のオークションでのご縁あってこそですので、とてもありがたく思っております。
この度はご落札いただきましてありがとうございました。
中略
このかんざしは和装洋装どちらでもお使いいただけるものでございます。
お気に召していただければ幸いでございます。
2016年の4月末からヤフーオークションで週に1~2点 出品させていただいてまいりました。
30歳代半ばの方のご落札は何回かございましたが
20歳代のお客様は初めてでございます。
長崎でお店をいたしておりました頃は
旅情に誘われて若い方にもいらしていただいていましたが
オークションで入札していただけるとは思っていませんでした。
メインのお客様は
40歳代以降のオバサマ方です。
60歳代半ばぐらいまでです。
「若い人が鼈甲に興味を持ってくださることはないだろう
そうなると鼈甲に携われるのはあと
10年が限界だろう」
と思っていたさなかでしたのでほんとうにびっくりいたしました。
商品紹介に記載いたしておりますように
わたくしの身体
(腎臓
)が壊れてしまったことでやむなく閉店いたしましたので
1990年代後半の鼈甲業者が勢いを失う前の商品群が
タイムカプセルで保管されたようなかたちで手つかずでわたくしの手元に残っています。
しかし
現在
鼈甲の原材料はほとんどありません。
未来のない業種業態で人が真剣にお仕事をしていく
より良いものをつくっていく
現実には出来ない相談
無理です。
レベルが下がるのは当然です。
勝手な独り言です。
良い細工の鼈甲製品を手に入れる方法は
2つあります。
そのひとつは骨董品店で探すことです。
古き良き時代の優れた職人の仕事がそこここにあります。
ただし中古品です。
特に櫛笄は
使っていた人の髪の皮脂が付着してベタベタして脂臭い匂いがついています。
どんなに拭いてもとれません。
表面を削って磨き直しをすることで皮脂は取り除けますが
形が崩れてしまいます。
細工を入れ直して形を整える力量のある職人は現存しません。
腕の悪い職人が磨き直しをいたしますと
目が当てられないものになってしまいます。
もう一つの方法は
わたくしどものオークションをずっと見ていただくこと
です。
まだまだ色々なバリエーションの商品がございます。
いまのペースで販売をしていくとき
わたくしが彼岸へ旅立ったあとにも商品はたくさん残る計算になります。
あなた様の後ろに
鼈甲を好いてくださる若い女性のお客様がたくさんいらっしゃる
と信じて
20年ぐらいは細く長く鼈甲を販売していこうと
先日頂いたメッセージを拝読して
強く感じました。
勇気づけられました。
感謝しています。
本日かんざしを受け取りました。とても丁寧に梱包して発送していただき、まことにありがとうございます。
子供に戻ったような心地でわくわくしながら開けました。
手に取って拝見いたしますとあまりに左右対称なので、これが人の手で圧着されて作られていることを忘れてしまうほどでした。
接着剤を使用しないでくっついているというのが不思議です。
梱包を開けた時に初めて鼈甲を触りましたので鼈甲が少しひんやりしているという事を初めて知りました。
上白の部分と黒のコントラストが美しくてうっとりいたしました。
やはりあめ色の鼈甲は黒髪にあいそうだなと思いましたので、今からこの簪を付けてお出かけするのが楽しみです。
もうすぐ三十路の当方ですが、二十歳代の落札が初めてと聞いて驚きました。
でも確かに、鼈甲の簪と言うと旅行先の資料館に展示されていたりドラマに出てきたりするもの、という印象があり、遠い存在だと思っている若い人が多いのかもしれません。
あるいは本物の鼈甲を見たことが無く、プラスチックのものしか見たことが無いので鼈甲の美しさを知らない人が多いのかもしれません。
ですが鼈甲に興味がある若い人はこれからも居なくならないのではないかと私は思っております。
「和装が好き」という私と同じくらいの年齢の友人もおりますし、旅行先で着物を着て歩く若い女の子を見かけることもここ数年で増えてまいりました。
そういった子達の中には私のように鼈甲の装飾品を手に入れてみたいと思っている人が必ず居ると思います。
もしくは、今はただ若くてお金がないだけで手に入れたいという夢を持っているひとが居るはずです。
ですから、川口様がこれからも長く鼈甲が隆盛を誇っていたころの装飾品を販売して下さるのは本当にありがたいことだと思います。
近い将来本来なら手に入れられなくなるはずの上質で新品の鼈甲のお品を、当時生まれていなかった人でも手に入れられる幸運を将来の若い人たちに伝えて下されば幸いです。
私もまた川口鼈甲店様のオークションを拝見させていただきたいです。
若輩者が釈迦に説法のように語ってしまって申し訳ありません。
今回は素敵な簪をありがとうございました。
このような時期でございますから、どうぞお体ご自愛くださいませ。
商品到着から
20日あまりあと ゴールデンウイーク明けの午後
着物姿でこのかんざしを髪に挿した後ろ姿のお写真が郵送で贈られてきました。
そのお写真を拝見してびっくりいたしました。
わたくしの手元にありましたときとはまったく違う別の趣がありました。
このかんざしを出品いたしますとき
人生をそれなりに長く生きてこられた方にお使いいただくことを想像していました。
そういう方々を美しく演出してくれるかんざし
そう思っていました。
しかし
実際は違うものになっていました。
老舗ブランドの着物ではなくて昨今の流行であるデザイナーブランドの着物
そしてかんざしがうまく似合っていました。
貴金属のアクセサリーは
身につける人を引き上げて輝かせてくれます。
鼈甲は
身につける方にそっと寄り添って
その方の醸し出す空気に染まる
というかんじがいたします。
鼈甲は
最初
思いの外ひんやりとした冷たい手触り感があります、
しかし
特に櫛笄は 身につけているうちにその人の体温で温かくなります。
温かいぬくもりのような感触です。
20歳代の女性が身につけるとき
20歳代の方に合う趣が出てきます。
30歳代
40歳代
50歳代
60歳代
70
歳代
80
歳代
このかんざしは時を越えて このお客様に寄り添い馴染んでいって
その方の年齢に合った美しさを演出してくれる
もの
そう確信いたしました。
【べっ甲・その美 ビデオ動画のご案内】
日本鼈甲協会という非営利団体である一般社団法人があります。
長崎 大阪 東京の鼈甲組合すべてが属する連合会です。
わたくしの祖父は長崎玳瑁琥珀貿易事業協同組合の初代組合長でした。
1988年 わたくしは 独自路線でやっていくため祖父が発起人となって設立した組合を脱会しました。
1993年 鼈甲の原材料である玳瑁亀の輸入禁止に伴う国の助成を受けて
日本べっ甲協会が鼈甲細工を紹介する32分あまりのビデオを制作しました。
わたくしども 川口鼈甲店 を除くほぼすべての鼈甲関係者の知識を結集してつくったものです。
悲しみだけが夢をみる
いつの日か 玳瑁の輸入が解禁されることへの祈りが込められたものです。
わたくしども
は組合に属していませんので蚊帳の外でした。
各鼈甲専門店や鼈甲職人が大切にしている美術工芸品を持ちより
ビデオが制作されました。
川口鼈甲店の美術工芸品は除外されています。
2002年 鼈甲の資料や美術工芸品 制作工程の実演を催す長崎市べっ甲工芸館が長崎市松が枝町に開館しました。
「組合員ではないから」
と遠慮していたのですが
「そんなこと どうでもいいから 見に来てください」
というお誘いを受けました。
工芸館の館内で さきに制作されたビデオが上映されていました。
「長崎や東京の鼈甲組合がいくつも鼈甲を紹介するビデオをつくっているけれど
このビデオは突出している
過不足なくわかりやすく鼈甲について紹介してある」
と感じました。
お願いしてビデオテープを分けてもらいました。
ビデオ制作から27年の歳月が流れました。
2003年の春以降 ビデオを再生していませんでした。
ビデオテープは永く保管していると劣化して視聴できなくなります。
富士フイルムのビデオテープデータ復旧デジタル化サービスにお願いして劣化しないようにデジタル化いたしました。
日本べっ甲組合にある著作権を侵害しないよう
再生時間等を数字で表示するというフイルターをかけて頂いています。
川口鼈甲店のホームページにデジタルデータをアップしました。
You Tube 経由の処理をしていますのですべての環境で視聴していただけます。
最初の10分間は鼈甲のルーツと日本伝来から現在に至るまでの過程が紹介されています。
その次に鼈甲店が紹介されています。
最初は明治大正期の川口鼈甲店
それから
明治大正期の二枝鼈甲店 平成期の川口鼈甲店 江崎べっ甲店 中古賀鼈甲店 の様子が紹介されています。
11分から28分まで 鼈甲の美術工芸品が紹介されています。
29分から2分あまり 鼈甲製品の制作過程が紹介されています。
わたくしにとっては 子供の頃から慣れ親しんできた 見慣れた光景です。
それでも 製造現場の映像を見ていると 胸が痛くなり
目頭が熱くなります。
「べっ甲・その美」
【修理不可のご案内】
長崎市にお住まいの方から鼈甲製品の修理についてのご質問を頂きましたので
質問と回答を原文のまま記載させて頂きます。
質問
長崎市民です。とても懐かしく、また閉店を残念に思っておりました。
購入後に使用していく中、割れ・カケなどできた場合の修理など、どんな感じになりますか?
宜しくお願い致します。(2016年10月 6日 12時 41分)
回答
ご質問ありがとうございます。回答欄は全角300文字以内という字数制限が設けられていて 300文字以内ではうまくお伝えできない内容ですので 字数制限のない商品説明の最下部に回答を追加記載させて頂きます。
わたくしは職人ではございません。
長崎でお店をさせて頂いておりました頃は職人を抱えていましたので修理をさせて頂いていました。
しかし現在は職人を雇用していませんので修理をする術がございません。
商品の修理は造り手と同等もしくはそれ以上の腕のいい職人の手に委ねないとうまくできません。
腕の良くない職人の手にかかりますと
どんなにすぐれた製品であっても不格好で悲惨なものになってしまいます。
幼児の工作のようなハリボテになってしまいます。
鼈甲製品は二つに割れたりヒビがはいってしまっても
水.卵白.熱.圧力を駆使することで接着部分がまったくわからない
新品の状態まで変幻自在に復元することができます。
しかし腕の良くない職人ですと接着部分が微妙にわかってしまうできあがりになります。
光沢がなくなってきた商品も磨き直しをすることでご購入時と同じ状態になります。
しかし腕の良くない職人ですと表面を必要以上に削ってしまい
薄っぺらで小さなデザインが崩れておかしなものになります。
わたくしの手元にあります商品は鼈甲業に勢いがあったときの腕のいい職人によるものばかりです。
鼈甲業は原材料の輸入禁止以前に入手した材料が尽きたところでおしまいです。
ほんの一握りの腕のいい職人は高齢で廃業していき息子さんにはあとを継がせていません。
長崎市浜町アーケード街.浜屋百貨店そばで鼈甲の専門店をいたしておりましたころは
他の鼈甲店の商品であってもすべての修理をお受けして
新品と遜色ないところまでの完璧な修理をお受けしていました。
わたくしの知る限り わたくしどもの商品を完璧に修理できる腕のいい職人は
日本国内には現存しないと思われます。
お使い頂いた後には必ず柔らかい布で拭いていただき
傷ついたりくもったりしないよう大切にお使い頂ければと
切望しています。
質問者様からのお返事
ご丁寧に回答頂きありがとうございます。
以前川口鼈甲さんの前を通るたび、いつか落ち着いた大人になって持ちたいな・・・
と憧れていました。
いざ大人になってみると、浜町の素敵なお店がどんどん閉店し、
鼈甲も以前に比べ、大変貴重で、職人さんも減ってしまったようで、
大切にするしかないのですね。
参考にします。
【送料無料 (当店負担) 発送方法のご案内】
2016年の4月から個別の販売を終了して Yahooオークションのみの販売をさせて頂いています。
出品をはじめるにあたり
「わたくしどもの鼈甲製品を入札してくださる方はどなたもいらっしゃらないのではないか」
という不安がありました。
それから2年半 169点 (2018年9月10日現在) の商品を出品させていただきました。
入札に際してたくさんの方々に参加して頂きました。
定価を超える金額で落札して頂けることが増えてまいりました。
北海道や九州沖縄県の方には高額の送料をご負担頂いています。
実店舗での定価販売を常としてまいりましたわたくしにとっては
申し訳ないような複雑な思いがございます。
定価を超える金額で落札してくださった方の送料と遠方の方の送料の一部を
わたくしどもで負担させていただこうかと迷いました。
しかし それも違うような気が致しました。
それで 2018年9月11日以降に落札してくださった方の送料はすべて
わたくしどもで負担させて頂くことに致しました。
宅急便VIP扱いについて
VIP配送は配達の際 車中では専用の鍵のかかるケースに入れて管理され、
お届けの際にはお客様にフルネーム確認をしています。
また必ず社員であるSDが取扱い アルバイトや委託業者の取扱いはされていません。
お受け取りの際には必ず認印かフルネームでのサインが必要です。
(ヤマト運輸さんは個人のお客様からのVIP扱いでの発送は行っていません)
【長崎・軽井沢・川口鼈甲店】
1997年春 郷土史研究史跡探訪グループ・長崎史楽会の会員の御老人が
西友長崎道ノ尾店で展示会をしていた会場へ訪ねて来られました。
「長崎新聞で川口鼈甲店 が 浜町のお店を閉店したことを知った。
私の先代は大正時代に船大工町の川口鼈甲店のお隣で鍛冶屋をしていた。
当時長崎の商人は目の前の商いで手一杯だった。
しかし川口の創業者は
長崎で繁盛しても東京で認められなければ自分が商っているものは本物とはいえない.
だから東京にお店を出す… と言っていた。
当時 長崎の鼈甲は外国人が買っていた。
川口はその利益をすべて東京出店に費やした。
横浜市元町と東京市新橋にお店を出した。
長崎と東京は汽車で30時間以上かかっていた時代のこと
皇族方宮内省各宮家御用達になり.昭和天皇結納品の鼈甲化粧セットを納めた。
夏季には政府高官.各国の大公使が軽井沢に避暑に行くので軽井沢に出張所を設けた。
大正12年 関東大震災で東京.横浜の支店は全焼した。
太平洋戦争の最中 鼈甲の原材料は輸入できなかった。
昭和23年 川口の先々代は神田の旅館に宿を取り
長崎県庁東京出張所所長の渡辺氏と二人 管轄官庁の門前に座り込みをして
一か月通いつめることで官庁関係者が根負けして鼈甲原材料玳瑁亀の輸入再開 にこぎつけた。
川口の先々代がいなかったら 今現在 鼈甲は日本国内の店頭に並んでいない。
太平洋戦争という地獄を経て鼈甲細工は消滅しなかった。
あなたは自分のお店の閉店は自分のお店の歴史に過ぎないと思っている。
でもそれは違う。
川口鼈甲店の生き死には 鼈甲文化の生き死にそのものなんだ。
あの悲惨な戦争を生き延びてきた。
鼈甲の原材料の輸入禁止は日米の経済摩擦によるもの
太平洋戦争とは違って経済戦争で人の命は奪われない。
経済戦争なんかで負けてはいけない。 ここで終わってはいけない。
このことをあなたに伝えなければ私は死んでも死にきれない。
今 こういうことをあなたに伝えることはとても残酷なことだと思う。
でも ここで諦めないで頑張って欲しい 」
お酒の勢いを借りてお話をしに来てくださったその御老人の言葉が
わたくしの頭の中から離れることはありませんでした。
1993年 永六輔さんのラジオ番組宛に鼈甲についての思いを綴った葉書を出しました。
それがきっかけで 永六輔さんと親しいお付き合いをさせていただくようになりました。
年に数回お目にかかってお話をさせていただいていました。
2005年3月 近況報告の手紙を書きました。
ラジオ番組や講演会で永さんがわたくしのことを語ってくださいました。
「長崎で 川口 といえば 鼈甲 です。
長崎の目抜き通りの真ん中に堂々としたお店を構える押しも押されもせぬ老舗です。
色々なことがありました。お店はなくなりました。
川口は体を壊しました。
いま 川口は転地療養のため軽井沢で暮らしています。
そして体調が良くなってきました。
僕も若い頃 体がとても弱かったんです。
信州小諸・軽井沢で疎開生活をしているときに元気になりました。
だから信州での転地療法が身体にいいということはよくわかるんです。
身体が弱い人が信州で暮らすとみんな元気になるということではないのですが,
元気になった川口は軽井沢で鼈甲のお仕事を再開しようとしているんです。
でも 今現在 お店はない。
お店はないけど 何かをしようとしている。
いまはまだ 鼈甲といえば 長崎 です。
でも 近い将来 日本じゅうの鼈甲愛好者のなかで
鼈甲といえば軽井沢 と云われるようになると思います。
だって 僕の友達である川口が軽井沢で鼈甲のお仕事を再開したのだから。
皆さんこのことを 頭の隅に留め置いていてください」
周りの人達から言われました。
第一級の文化人である永六輔からこれだけのエールを贈ってもらっていて
決起しなかったら漢 (おとこ) じゃない…」
そして思いました。
「身体が壊れているのだから そんなことを言われても困る。
何より自分はそれほどの人間ではない」
以後 永さんとの距離をあけました。
それでも永さんの言葉はいつも心の奥で響いていました。
25年以上のお付き合いのある長崎在住の女性の友人がいます。
雑誌の編集 全国誌の旅行ガイドの長崎版の制作に携わっている人です。
2017年12月30日 お互いの近況報告を兼ねて2時間ほどお電話で情報交換をしました。
「長崎といえば カステラ そして 鼈甲
鼈甲 といえば 長崎
川口鼈甲店が長崎の街からなくなってもうすぐ20年
鼈甲といえば長崎 というんだったら
長崎の鼈甲屋さんには川口のオークションの商品と同等もしくはそれ以上の商品が並んでいなければおかしい。
でも長崎の鼈甲屋さんの商品には
いまどき こんなもの誰が買うの…? というものしか並んでいない。
長崎といえば鼈甲 鼈甲といえば長崎
それは川口鼈甲店の鼈甲のことだったような気がする。
Yahooオークションの川口の鼈甲製品は20年以上前のもの
それなのに いま 長崎のどの鼈甲屋さんに並んでいる商品よりも新鮮な輝きがある。
オークションは それなりのものをそれなりの安い値段で買うためのもの
でも 川口の オークションはそうじゃない。
次から次に目新しい商品が出品される。
大げさな言い方をすると
世界の名画をオークションで落札して入手する
そういう異質の空気感がある」
と言われました。