【総説より 一部紹介】
筆跡への愛着
唐?の能書家の一人として著名な柳公権(七七八-八六五)のことばに「心正則筆正」というのがある。これは、筆を執る人の心がそのまま筆に現われるという意味であろうが、さらに広く解釈すれば。そういう執筆時の心にかぎらず、その人の人柄が書には反映するもの、ともいえるであろう。まさにそのとおりで、書と執筆者の人間性とのつながりほど濃密なものはない。その点は、他の造形芸術である絵画、彫刻、工芸の世界におけるよりは、いっそうの感がふかい。筆跡への愛着の念が高まるゆえんである。二、三の例をあげてみよう。
東晋の王献之は、父の王義之とともに、二王とも大小王とも称せられ、古来、書聖とあがめられた人である。あるとき、父とも親交のあった謝安に手紙を送った。謝安は、当時、武将として功績のあった人であるが、文芸の道にもすぐれ、かねて書を能くした。手紙を送った王献之の腹では、自分のみごとな筆跡を謝安はたいせつに保存してくれるであろうと考えていた。ところが、やがてその手紙は返事をしたためて送り返されてきた。さすがの王献之も天狗の鼻を折られたというのである。この話は唐?の能書家孫過庭の『書譜』という本に見えている。
藤原行成は、当時、多くの人びとに愛読されていた、源信・恵心僧都の著書『往生要集』を持たなかったとみえ、藤原道長の所持本を借りて写した。さて、写し終わって返しにゆくと、道長は、その所持本を行成に与え、行成の写したほうの本を取り上げてしまった。これは、行成の日記たる『権記』の「寛弘二年九月十七日の条」に記されている。
『枕草子』を見ると、行成から清?少納言に送られてきた手紙を、お仕えしていた定子中宮にごらんに入れると、その筆跡のみごとさに、中宮にはそのままお手もとにとめ置かれた、ということが百十四段「頭の弁の御許よりとて」に書き残されている。
以上の例は、同じ世代?に生きている人同士の間のできごとで、書いてもらおうと思えばいつでもできる環境にあるわけである。それにもかかわらず、美しい筆跡に対する愛着心は制しきれないものなのである。ましてや、古人の筆跡に対しては、その愛着心はつのらざるを得ない道理であろう。この、古人の筆跡に対する愛着の念の見られる例は、それこそ、枚挙にいとまはないが、ここにも二、三の例をあげておこう。
古代?の筆跡のうちでも特に名高いものに、『秋萩帖』と『桂宮本万葉集』巻四とがある。いずれも巻物で、平安時代?の名筆であるが、前者においては第二紙以下の、また後者の、それぞれの紙背の継ぎ目ごとに、花押すなわち書き判が書かれている。(このように書かれた花押のことを合縫とよぶ)この花押は鎌倉時代?の伏見天皇のそれである。つまり、この二つの巻物は、四本を、弘仁三年六月七日、嵯峨天皇に献じたおりの表文である。
後水尾天皇には、空海の筆跡が見たいと仰せられたので、いろいろごらんに入れたところ、この表文がお気に召し、中間二行を切り取られた、というのである。
すなわち、第三行の最後の文字「随」と第四行の最初の文字「星」との間に欠脱があって、文章が続かないのがそれにあたる。
以上、筆跡への愛着ということについて、さまざまの例をあげてみたのであるが、こうした愛着心が次章に述べようとすることと、密接に関連する。
古筆とは何か
古筆ということばは、今日、一般的には使われていない。このことばの古い使用例としては、お家流の祖である尊円親王のご著書として名高い『入木抄』があげられる。親王は伏見天皇の第六皇子、父帝に似ましたご能書で、本書は、筆道伝授の書として、後光厳院に献じたものと伝えられる。そのなかに、「其の筆仕の様は、古筆能々上覧侯て可有二御心得侯」と見える。この場合は、同書にしばしば使われている「古賢」とか「先哲」とかのことばの表わす古代?の能書家、その能書家たちの筆跡という意味であろう。また、室町時代?の記録には、古画に対しても古筆という名称が与えられている。
さて、今日のわれわれの使っている古筆ということばを説くには、まず、手鑑というものから述べる必要があろう。
手鑑の「手」とは、もちろん筆跡の意味であり、「鑑」とは、亀鑑などということばがあるように、万人の範となるようなすぐれたもの、という意味にほかならない。つまり、だれでも手本とすることができるような優秀な筆跡を集めたもの、というところから手鑑の名は生まれたのであろう。大きさや厚さはまちまちながら、いちように画帖仕立てになっており、その表裏両面に筆跡の貼り込まれているのが普通である。
ところで、この手鑑の起源がいつかは明?らかでない。しかし、少なくとも、桃山時代?には、ごく一部の好事家に限られていたにせよ、行なわれていたことが推測される。その根拠は、前章にあげた『桂宮本万葉集』の外箱の墨書に見られる「被押手鑑」のことばである。ただ、このころに行なわれた手鑑は、各自が好みにまかせて集めた筆跡を、一定の序列次第もなく、手に入るままに順次貼り込んで鑑賞していたものではないかと想像される。
ところが、江戸?時代?にはいると、いつのころからか、貼り込む筆跡の種類や序列が定まるようになり、一定の規格にはめて手鑑が造られる習慣が生まれた。
まず、表には、奈良時代?の聖武天皇に始まる代?々の天皇のご筆跡、つぎが皇族、つづいて摂政関白(後略)
【作品解説より 一部紹介】
大聖武 伝聖武天皇
伝来 古筆家
寸法 本紙 縦27.3cm 横14.5cm
古く東大寺に伝えられ、同寺が聖武天皇の勅願寺たるところから、同天皇筆と称せられてきた。経は「賢愚経」である。普通の写経には見られない特色が二つある。その一つは料紙が荼毘紙であることである。紙の表面に粒々が見られるので、釈迦の骨粉を漉き込んだものというが、もとより骨粉ではなく、防虫のための香木の細末である。その二は字粒が異常に大きいことで、一行十二、三字詰めから十字詰めの部分さえある。大聖武とよばれるゆえんである。同じ料紙で中字のを中聖武、小字のを小聖武とよぶ。現在東大寺に大聖武の巻第十五の完本一巻が在るほか、諸所に散在し、断片をも古くから尊重、したがって手鑑の初めに必ず貼り込まれるしきたりになっている。断片を「大和切」ともよぶ。
この大聖武は現在では中国写経の舶載されたものであろうと考えられている。
高野切 第一種 伝紀貫之 重文
寸法 略
内容は『古今和歌集』。もと巻物で、料紙はきわめて上質の麻紙とおぼしいものを用い、表面にすこぶるこまかい雲母砂子がまかれている。書かれた当初は、二十巻そろっていたはずであるか、現在では全部で九巻分しか残っていない。それらを通覧すると、書風は明?らかに三種類にわかれる。すなわち、少なくとも三人の能書家による分担執筆で、こういうのを寄合轡と名づける。第一種(巻一・九・二十)、第二種(巻二・三・五・八)、第三種(巻十八・十九)と区別してよぶゆえんである。これらのうち、書かれた当初のままに完全に巻物の形で残るのは、巻五・八・二十の三巻にすぎない。ここに収めたのは巻九の巻頭で、内題が書かれ、余白の美しさなど、高野切中でも、鑑賞価値が高い。のみならず、本幅に付属した覚書によると、豊臣秀吉の愛蔵にかかり、後、高野山文殊院の木食応其が拝領したことが知られる。高野切なる名称はここに由来することがわかり、その意味でも貴重な「切」である。
この一具の『古今和歌集』が書かれたのは、十一世紀?の半ばと推定される。というのは、第二種の筆者―源兼行との推定説がある―が、天喜元?年に落成した宇治・平等院鳳凰堂の内壁や扉の内側にある色紙形に、「安養九品文」を執筆しているから、この高野切の執筆も、この年を中心とする前後の時代?か、ということである。そうすると、『古今和歌集』を写した本としては、高野切は現存最古の遺品ということになり、国文学上にもすこぶる貴重な資料的価値をもつものとなる。なお、筆者が貫之であり得ないこと、いうまでもあるまい。第一種の書風は端正美の一語に尽きる。一宇一字やや下ぶくれで、すこぶる安定感に富む。連綿と墨のつぎ方もごく自然で、なんらの作為も感じさせない。全体としていずまいが正しく、はなはだおおどかな気品にあふれ、王朝時代?特有の、貴族的な生活感情を端的に反映している。そして、仮名に、もとの漢字のおもかげを明?らかに宿していることは、この筆者が漢字書道の豊かな素養を身につけていたことを物語ってもいる。
古今倭歌集巻第九
羈旅哥
もろこしにてつきをみてよみける
あべのなかまろ
あまのはらふりさけみればかすがなる
みかさのやまにいでしつきかも
このうたはむかしなかまろをも
ろこしにものならはしにつかはした
りけるにあまたのとしをへてえかへり
まうでこざりけるをこのくにより
またつかひまかりいたれりけるにた
ぐひてまうできなむとていでたち
けるに明?州といふところのうみべにて
かのくにのひとむまのはなむけしけ
るに〔よるに〕なりてつきのいとおもしろ〔く〕さし
いでたりけるをみてよみけるとなむ
かたりつたふる
一品経和歌懐紙 西行 国宝
伝来 一乗院-福井崇蘭館
寸法 略
所蔵者 京都民芸館
平安時代?、法華経信仰の盛んな時期に、一品経書写ということが、しばしば行われた。
法華経二十八品に無量義経(開経とよぶ)と観普賢経(結経という)の二巻を添えて、全部で三十巻を大ぜいで分担執筆した。そういう書写のしかたを一品経とよぶ。それになぞらえて、だれかの供養のために歌会を開いた折の懐紙である。したがって、当初は三十枚あったのであろうが、現存するのは十五枚である。各人が一品ずつ受け持ち、その品についての歌一首に述懐の歌一首を添えた二首懐紙の形式で統一されている。その一枚を円位の名で西行がしたためたのがこれである。歌会の開かれたのは、これに参加した藤原季能と源隆親の官名から、治承五年の春から寿永二年の春までの間と知られ、西行六十四歳から六十六歳のことであった。この筆跡を見ると、平安時代?の優雅な趣を濃厚に止めており、なおかつ歌人西行が自歌を自筆で残した現存唯一の例として、すこぶる珍重すべきである。なお、この一類の懐紙をあとでつなぎ合わせて、裏に写経しているので、経裏懐紙ともよんでいる。
【付録 より一部紹介】
和漢書画古筆鑑定家印譜
源姓江州西川人平沢氏初名弥四郎薙髪法名了佐従近衛関白前久公古筆目利伝授遂為
古筆鑑定家祖学和歌烏丸光広卿同資慶卿賀了佐九十算賜以和歌及道服于関嚮白秀次
公使妙寿院惺窩命以古筆使為家号賜琴山之印代?々極印用之寛文二年正月廿八日没九十一
開祖 古筆了佐 名範佐 正覚菴機材
了佐四男伝琴山之印賞鑑家為第二世
延宝六年十月八日没七十二
初称源六郎又三郎右衛門
二代? 古筆了栄 名定門 即心菴直截 (以降一部略)
三代? 古筆了祐 名定香 即性菴直空
四代? 古筆了周 名重忠 不妙菴法室
五代? 古筆了珉 改光就 即空菴五翁
六代? 古筆了音 名最博 即悟菴裏叟
七代? 古筆了延 名最門 玄中菴長泰
八代? 古筆了泉 名最隆 鏡照菴澗山
九代? 古筆了意 改最長 鑑学菴道古
十代? 古筆了伴 名最恒 一篷菴夢翁
十一代? 古筆了博 名最信 即修菴
十二代? 古筆了悦 名最祐 即学菴
古筆勘兵衛
古筆了雪 名重光 初称治左衛門
古筆勘兵衛 名守村 了任
古筆了仲 名守直 称勘兵衛
古筆了観 名最村
古筆了仲 名栄村
門人系
承応四年四月八日没七十六
進僖男寛文二年九月一日没四十九
神田道僖 神田六右衛門 道智
神田喜兵衛 名定恒 道僖
神田道伴 名定盤
神田道僖 名定武
神田道古 名定常
神田道伴
中外隧応
明?暦二年八月廿一日没六十八
畠山牛菴 名光政 春耕斎仙口
畠山牛菴 名義高 伝菴桂花即口
畠山牛菴
朝倉茂入・道順 木村見室・正就
蔵本了因・呑舟軒・初笠原箕山云 平井藤兵衛
藤井常智・良好・長延改 井狩源右衛門
朝倉茂入・景頼・景順改 桜木勘十郎
奥西宗円・堯倫 恒川了廬
末田幽碩 大倉汲水
蔵田宗英 大倉好斎
日永可敬 武部了幽
平塚平兵衛 清?水了因
川勝宗久 小林了可
嘉右衛門 小林了安
九峰和尚
浅井不旧 時習軒
川勝宗久
慶応三年卯暦仲冬
再刻